うどん県に行ってきた Part2

天守台から降りてきて、そのまま「玉藻公園」という公園になってる城跡をウロウロする。
で、次に目に付いたのが「披雲閣」という建物。

これは元々歴代高松藩主が生活していた御殿だったのを
大正時代に当時の松平家当主が建て直したとかで、
それはそれで大正期の歴史的建造物としての価値を認められ、重文に指定されてるとか。

…で、中に入って…広い、広すぎる。

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いやまあ、元殿様の御殿で、その後華族の別邸であるからして
貧相なわけはないんだが、玄関だけで俺が今住んでる部屋より広いってのは正直ちょっと嫌になったわw
ちなみに、現在は高松市の持ち物になってて、会議とか茶会とかで使えるらしき。

ちなみついでに言うと、この高松の殿様ってのは最初は生駒家で、その後松平家。
この松平家の初代頼重さんというのは、実は德川光圀…いわゆる「水戸黄門」の兄だったりする。
よくある母親の身分が云々って訳でもなく母親も同じ兄弟なのだが
何故に弟が御三家の水戸を継ぎ、兄が分家筋の高松になったのか…
親父の德川頼房が、頼重さんが産まれた時点で尾張家・紀伊家の跡継ぎが生まれてないので
それを憚って認知されず、認知されたときには跡継ぎが光圀に決まってたとかって話もあるのだが、
結局伝説の域を超えてないようで、要するによく分からん。
光圀自身もこの兄に対して「悪い事した」とは思ってたみたいで、
これが「ヤング黄門DQN伝説」の一因であったとか色々面白そうな話はあるのだが、
それぞれの子供を養子に出して交換し、その後は水戸に兄、高松に弟の血筋が伝わってるという。
ま、水戸德川家の家庭の事情って事であまり深くは触れない方が良いみたいだなw

ともあれ・・・話を戻して、披雲閣を出てさらに城内をうろつく。まずは重文、艮櫓。

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これは中に入れないので外から眺めるだけ。

つづいて、艮櫓からさっきの披雲閣を挟んで反対側にあるこれまた重文、月見櫓。

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こっちは中に入れたのだが…内部を見ると、ちょっと違和感が。

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いやその・・・細かいことなんだが、鉄砲狭間の位置が妙に高いのよ。
俺の顔の位置くらいなので、140~150cmくらいの高さかな。

何が問題かって言えば、城内からだと鉄砲は膝をついて下の方へ撃つので
鉄砲狭間は膝下の位置に切ってあるのが普通。
つか、実際問題戦国時代の男の平均身長は156~7cm前後らしいので、
こんな位置にあったら下の方は狙いにくい。
台に乗って立位で撃ちゃ良いのかも知れんが、
少なくとも江戸時代初期くらいまでのお城てのは軍事施設であって実用本位。
わざわざそんなめんどくさい事をさせるとも思えん。
かなり釈然としなかったので後で調べてみたところ、どうもこの月見櫓、
1955年に一度解体修理されてるらしいんだが、その際に古写真になかった鉄砲狭間と石落としが
何故か『再現』されてて、専門家からもツッコミが入ったらしい。
高松市側の言い分では「解体した際に痕跡があったんで再現した」とのことなんだが、
実際のところ何を根拠に再現したのかはよく分からんらしく、
多分「観光客向けに見栄えを重視したからじゃね?」というのが正解っぽい。

んー・・・何つかそのね、さっき書いたパチモノ天守の小○原なんかでも
石落としが石垣上へ張り出されてないもんで何の意味もない代物になってたりとかがあって
これも最初に見たとき非常に残念な気分になったんだが、アレはパチモノだし、まだいい。
ただ、こっちはパチモノじゃなくて本物なんだけどな…なんだかなあ。

ちなみにこの櫓、水手御門というのがあって
昔はここからすぐ海になってて小船を出して海上に直接出られたらしい。

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さすが海城、こういうのは独特なものだな。
うーん、色々面白くはあったが、こだわるようだがさっきの鉄砲狭間だけがなあ。
書いた通り、見栄えだけで付けられってのがホントの事なら実に残念。
もうちっと文化財って物について、考えて欲しかったな。

(続く)

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