みかん県にも行ってきた Part9

と言うわけで宇和島城に突入。

このお城を作ったのは藤堂高虎さん。
加藤清正さん(派手な方の加藤さん)と並んで築城の名手と言われた武将なんだが、
ここで色々実験的なことをしてその後の天守にも応用してるらしい。
ついでに言えば、今は埋め立てられてなくなっちゃってるけど、
以前はお城のすぐ下が海で、お堀も高松城と同様海水だったようで、
平山城であると共に海城でもあるというちょっと変則的なお城だったみたいだ。

ただその…この高虎さん、隣の松山にいた加藤"ジミー"嘉明さんとえらい仲が悪く、
松山城の時に書いた通り、嘉明さんが松山城の完成直前に会津へ転封になったのは
実はこの高虎さんが嫌がらせの意味で推挙したからという説もある。
ただ、転封によって石高倍増した嘉明さんは高虎さんより石高が多くなるし、
そもそも会津は東北の重要拠点なのでヘタな武将には任せられない土地でもあって、
嘉明さんにしてみれば「栄転」とも言える。
この推挙に対して、当時の将軍德川秀忠が「お前ら仲悪かったんじゃね?」と訝ったところ
「不仲は私事、推挙は公事である」と高虎さんが答えて、
それを聞いた嘉明さんが感嘆してそれ以来仲良くなった…なんて話も。

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嘉明さんの地元松山では前者、高虎さんの地元今治では後者が主に伝えられてるらしいが、
それぞれ自分の所の領主を悪く言うってことはあまりなさそうだし、実際の所はよく分からん。
個人的には…高虎さんの「不仲は私事、推挙は公事」で推挙したってのもホントだろうが、
ホンネの部分に「アイツ嫌だから遠くに行かせて欲しい」ってのもあったんだろな…とは思う。
まあ、政治的なアレコレはその頃からあったんだろうなって話。

その後、色々あってこのお城を貰ったのはあの独眼竜政宗の長男、伊達秀宗。
ちなみに仙台の本家は弟が継いでる。
高松の松平頼重さんの話と少し似てるが、この人の場合は豊臣秀吉への人質にされた後猶子になって、
その後、秀頼の遊び相手から小姓やってたという経歴からちょっとマズいと思われたようだ。
で、やはり色々鬱積したものがあったようで、一度政宗さんと親子で大喧嘩していたり。
(最終的に政宗さんが「正直すまんかった」と謝って、不仲は解消したらしいが)
とまあ・・・だいぶ由来話が長くなったわけだが、この天守閣はこの伊達秀宗さんの息子、
2代藩主の宗利さんが1662年に作ったものだと言いたかったんだなw

ともあれ天守の中に入ると・・・

あちゃー、また団体さんと一緒になっちまったよ。

今回は日本人のジジババツアーみたいで、いきなり中国語で怒られたりはしなかったが、
この手の団体さんの常として、狭いところで騒ぐ騒ぐ。
うるさいんでさっさと最上階に上がって景色を見てたら、後から上がって来てまたうるさくなる。
仕方ないのでしばらく窓際を譲ってやって先に降りてもらった。やっと静かに見られるぞ。

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ちなみにこのお城、高虎さんの時代は分からんけど2代目の宗利さんの頃には
だいぶ世の中が落ち着いてきたころで、そのせいなのか玄関は他のお城と比べてかなりでかいし
石落としとか鉄砲狭間とかの戦闘向けの装備もない。

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こうなると軍事的な意味より政庁とかシンボルとかって意味での天守と考えた方が良さそうだな。
こうして武士が官僚化していって、最終的に幕末のゴタゴタから明治維新に繋がるわけだな。
…それにしても、今回は色々ウダウダ書きすぎたなあ。
次からは普通の紀行文に戻る…と思いたいw
(続く)

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